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アスベスト! [時事批評]

全国的にはどれほど話題になっているのかわかりませんが、
当ブログ管理人が自宅で購読している新聞では、
ここ数日、連日のように「アスベスト入り再生砕石」の記事がトップを飾ります。

再生砕石というのは、建造物を解体したときに廃材として出るコンクリートの塊や、
路面舗装を保全した時に剥がしたアスファルトの路盤材の塊なんかを小さく砕いたリサイクル建材で、
砂利の駐車場や建築予定地に敷設したり、水道配管のクッション材に使用する 「人工の石ころ」 です。

報道されているのはどんなはなしかというと、
市民団体 「浦和青年の家跡地利用を考える会」 (以下「考える会」)が今年5月~8月にかけて、
東京・埼玉・神奈川の一都二県で、駐車場や工事現場・空き地など約130地点に敷設された再生砕石を調査し、
このうち約40地点について詳しい分析を行った結果、
すべての地点から白石綿・青石綿などの有害なアスベストを含むスレート片が検出された、というもの。

ここまでならば、問題は産廃取り扱い業者のズサンな企業体質と、自治体の行政指導のヌルさだけですが、
ちょっとなんだかウサン臭いことになってきました。

情報ソース ; 2010年8月26日付東京新聞、朝刊・1面、いわゆる 「トップ記事」。

新聞報道によると、「事件」 のあらましはこんな感じ。
 ↓
「考える会」 によってアスベスト入りスレート片が発見された、さいたま副都心の公有地を、
埼玉県が8月18日・21日の2度に亙り調査、
また、さいたま市も、考える会に指摘された地点5ヶ所を6月ごろに調査し、
いずれもアスベストを含むスレート片は発見できなかった。

しかし、東京新聞記者により、さいたま副都心の同地点は8月25日に、
さいたま市が調査した5地点についても7月に調査したところ、
さいたま市の1地点を除く全ての場所で複数のアスベスト入りスレート片が確認された

一連の問題について、
埼玉県の上田清司知事は、8月23日の定例記者会見において、
アスベスト入り再生砕石は、チェックしたがなかった、と述べ、
スレート片を見分けられるひとが調べたのか尋ねた記者に対しても、
チェックしたのは産業廃棄物指導課長であり当然見分けられる、という趣旨の答弁をした。

しかし、実際には、
21日の調査を行った産業廃棄物指導課長の小板橋通泰ほか全4名は、
県が職員用教材として保管する、キレイにカットされた建材サンプルのスレート材を事前に見ただけ。
汚濁や風化をともなう再生砕石化されたスレート片の実物は、ただの一度も見たことがなかった。

また、さいたま市は、考える会が調査への立ち会いを申し入れたのを、拒否した。


う~~ん、
事前に真新しいキレイなやつをちょろっと見ただけの者を
当該事案のエキスパートと見做す埼玉県の見識、
その道のプロの立ち会いを許さなかったさいたま市の体質、
わざと発見しないで幕引きを謀ったんじゃなかろうか。
隠蔽工作のニオイがぷんぷんするのだ。



おそろしい映画 [日々の思ひ]

2010年8月10日のおはなし。

7年ぶりに映画を見ました。
正確には6年8ヶ月ぶり、って大差ありませんね。

もともと実写のフィクションがあまり好きぢゃないので、
テレビのドラマや劇場作品のオンエアも、家の誰かが見ているのを通りがかりに断片的に見る程度で、
劇場まで行きたいことって殆んどありません。

ちなみに7年前に見たのはコレ。 2003年に日本初公開された1990年作品。
    ↓

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やっぱり実写フィクションではありません。 で、今回見たのはコチラ。
チケット・プログラム

どしても見たい映画が、この夏だけでなんと2本も有り、なので勝手に2本立て。

この時空の中でひとはどう 「生きる」 べきか? 静かに問われ続ける計3時間あまり。
見たい映画を見ただけですが、このハシゴは大正解でした。


まずは 【老人と海 ディレクターズ・カット版】 9:50~11:30 テアトル新宿にて

1990年/シグロ作品(2010年D.C.) 監督 ; ジャン・ユンカーマン。
冗長な説明と、プリミティブな 「海」 へ意識誘導を妨げる闘牛シーンをカットして、
ほんの少しだけ短くなった20年周年記念版。

ヘミングウェイの名作小説を、舞台を日本の与那国島に移し、脚本無し、演技無し、リハーサル無しで映画化。
プロの俳優を一切使わず、出演者は全員島の一般人、しかも全員本名で本人の役で出演。
ようするに 「ドキュメンタリー映画」 です。

エンジンこそ積んでいるけれど大人ふたり並んで座れない昔ながらのサバニを操りカジキを追う、
82歳の漁師のものがたり。

「生きる」 ことの意味を正面から、しかし淡々と問う映画です。
本音を隠し建前かざり、要領よく世渡りするのが賢い選択と考えて、
カラッポの命をうすっぺらく演じている方に、この映画は理解できません。
ってことは、本当に見るべきは、そうゆうふうに生きている方ですね。

顔のアップやロングのカットが多くて、半身ぐらいのショットがもっとあると、さらに迫るモノがあったかも。。。。

海へ還ったじいちゃんが乗っていたサバニは今、与那国島の久部良公民館に展示されています。

さあ、ほんものの 「命」 に逢いに、映画館と与那国島に行かなければなりません。
これは現代に生きる 「まっとうな人間」 に課せられた義務です。

さて、『老人と海』 が終わり、次の映画館で座席をリザーブ。

2本目、借りぐらしのアリエッティ】 15:30~17:15 新宿ピカデリーにて

2010年/スタジオジブリ作品 監督 ; 米林宏昌  言わずと知れたジブリの新作。

恐らく、 「まんが映画」 とゆう呼び方が廃れて 「劇場用アニメ」 とか 「アニメ映画」 と呼ばれ出した頃から、
アニメで伝えるべきもの、アニメでならば伝えられるものについて、
作り手も受け手も認識が変わってきたと思います。
そうした時代の趨勢から外れて、いまだ古いタイプの 「まんが映画」 の認識を持ち続けている方にとって、
これほどつまらない映画はありません。

ま、ナウシカ (これはジブリ作品ぢゃないけど) 以来ジブリ作品はみんなそうですけれど。

ジブリ作品の特徴の一つである 「作画の美しさ」 について、当ブログ管理人は常々、
家庭の小さいテレビで見ると色もカタチもゴチャゴチャしすぎて却って煩わしいと感じており、
劇場の大画面で見る映画と認識していましたが、リアルとメルヘンのバランスがなんだか微妙で、
映画館で見たいと思ったのは、『猫の恩返し』 (リアル2 : メルヘン8) に続いて2作目でした。

で、今回のは、リアル8 : メルヘン2。

「生きる」 ことの意味をやんわりと問いかける映画です。
(以下略

これまで以上の大人アニメですね。
小学校高学年以下では何がいいのかワカラナイでしょう。
いや、それ以上でも理解できるか否かは当人次第ですがね。。。

ずいぶん前に聞いたはなしでは、宮崎駿さんは 『方丈記』 をアニメ化する夢をお持ちらしいので、
こども向けアニメを作る気は、はなっからないのでしょう。

ひとりの中年女性が、絵に描いたような (絵で描かれてますけどw) ヒールとして登場します。
物腰・表情のつくりかた・発言・行動、すべてが狡猾で傍若無人。
映画は、そんな人物像を冒頭の自動車の止め方で直感的に伝えます。
この女性の食事を執るしぐさは、ほんとうに 「醜悪」 の一言です。
しかし、最凶であると同時に、「ごくふつうの人」 なのです。

そして、ひとりの少年が登場します。
彼は無知ゆえの短慮と残酷さをそなえ、ためらいなくことばを発し、また行動に移していきます。
それは良く言えば 「度を超えた純粋さ」 であり、それゆえに主人公に味方することになりますが、
その意識の変革には、少なくともあと20分、何かエピソードが必要です。
この映画は、少なくとも、もう20分長くなければいけません。

もうひとり、初老の女性が登場します。
彼女は、一見良識と善意の側にいますが、
誰にも肩入れしない徹底的な没干渉・傍観に徹しており、決して理解者でも救護者でもありません。

この三者のあいだで追いつめられて行く、ひとつの家族のものがたりです。
だんごむし、かわいいです。

同族と他者、自然と人間、雇用者と使用人、独占と共有、
挑戦と諦念、近代文明と原始文化、
敵意と過保護、積極的接触と没干渉、短慮と狡猾、偽善と脅威、
エトセトラ、エトセトラ、

単純な二極対立を積み重ねて複雑に絡み合った物語の主題が表現されています。
もはや多くの人間は、この映画が投げかける問題を解決する術を失っているかもしれません。

なんだか原作の書評みたいですが、小人シリーズ全部読んでて記憶が混ざっているので致し方ありません。

あえて一言いうなら、
そもそも物語の舞台を日本の小金井に移しているのですから、
も少し料理しても良かったように思います。
「足りない20分」 として、原作にはないエピソードを追加するとかね。

ともあれ確かに 「今」 は、この映画を作るべき時代です。

さあ、行きたいけれどまだの方はもちろん、
↑を読んで見る気の萎えた方も、もともと行く気のなかった方も、
ある意味 「押井節」 以上に 「重い」 アニメです。 映画館へ行きましょう。


どなたかこの 「恐怖の二本立て」、真似してみませんか? 決して損はしませんことよ。



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敗戦記念日に寄す [日々の思ひ]

銃の国の自由を許すな。

「戦争に勝つ」 ということ。
それは相手に戦闘を維持できないほどの被害を与えること。
相手が戦闘意欲を失うほどに加害すること。
そして戦争に勝ち、被害者となって敗戦国を牛耳る。

「戦争に負ける」 ということ。
それは、このまま戦闘状態を維持できないほどに加害されること。
戦闘意欲を失うほどの被害を受けること。
そして戦争に負け、加害者となり戦勝国に蹂躙される。

なんだか矛盾していないか?

新型爆弾をぶちまけた鬼畜邪道国家は今日も世界のあちこちで、
自分勝手な正義を振りかざして残虐非道を繰り返している。

銃の国の自由を許すな。

一体いつから 「空襲」 を 「空爆」 と呼び代えたのだ?

テレビやラジオも、あの戦争を顧みるのはこの時期だけ。
空爆で命を落とした非戦闘民は全国各地に眠っている。
たとえその実態が、
日の丸を振って心から兵士を送り出した戦争推進派であったとしても、
それぞれの日に、この国の民は、
今のこの時期ほど戦争を振り返ることはない。

わずかな装備で突撃を敢行し、 「玉砕」 と謳われたた兵士たちも、
大本営に見捨てられて時間稼ぎのために無駄死にを強いられただけだ。
前線を知らない軍部のお偉いさん達に利用されたに過ぎない。
そうした戦闘計画の過ちは顧みられることなく封印されて、
ただ感傷的な自虐史観の下に、敗戦国の汚名を甘んじて受けている。

反省すべきは反省せねばなるまい。
しかし、傲れる者の慢心は決然として糺さなければならない。

銃の国の自由を決して許すな。
銃の国の自由を決して許すな。
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